EPISODE 2 「NS創設まで」


1988年ちょっとしたストレスからの逃避で遊び過ぎ、バイクで事故に遇った。
意識が戻った病院のベッドの上で、手術後の僕はパイプや点滴に繋がれて身動きがとれず、
それまでの人生を短くて無駄な一生にしてしまうところだったことを反省した。

『こんなことはしてられない』、妙にハイな気分になっていた。
「アメリカインディアンに遇いに行こう」昔見た映画では白人がインディアンに拾われたり部族に入る内容のモノが結構あった。
きっと行けばそうしてもらえるに違いない、安直に考えられるおめでたい性格だ。

そのころメーカーの商品開発の仕事をしていた僕には技術がいくつかあった。
デザイン、設計、図面、試作モデル製作、趣味でアクセサリーと革細工。
これだけできりゃ何とかなるだろうと入院から復帰後、すぐに辞表を書いた。
最後のプロジェクトを立ち上げて退社。
「仕事がなければ図面の仕事をくれる」と図面台まで持たせてくれた上司には今も感謝している。
事故の賠償額の3分の2は手術入院代で消え、後にはわずかしか残らなかった。
オートバイを買うことは思いとどまり仕事を始める資金にあてることにする。


1984~1987あたり
僕は露店商の仕事をしていた。髪が長くてロックがやりたいと仕事を見つけるのもかなり限られた。
  
今になってみると当時は髪が長いだけでかなりきつい時代だった、と同時に若さゆえの反骨心で熱くもなれた。
だから、メーカーの仕事を辞めてからも何かしらの仕事はあるはず_と思い込んでいた。
その通り、運良く僕はチャンスをもらった。


80年代半ば、知り合いの露店商の間で「今年はウエスタン(の流行り)がくるよ」と何度となくささやかれたがその度に僕は期待を裏切られていた。
当時ウエスタンが好きだった方ならおわかりと思うが、60、70年代のファッションはダサいと葬り去られたあとの頃だ。


メーカーの仕事を辞めた僕は失業者としてぷらぷらしつつ、仕事がありそうな知り合いのもとを転々として「なんでも屋」をしていた。
ある日、渋谷のとあるビルの空き地を仕切るおやびんが『お前は何をする何ものだ』と聞くので、
『僕はウエスタン系の革細工をやっている___』と自己紹介をすると、
『作ったものを見せろ』というので早速、次の日見せにいった。
すると『こういうものはこれから売れる、場所を貸してやるから(店を)出してみろ』と言う。
それまで僕が好きだと言うものに世間の賛同を得たものなどなく半信半疑だったが、嬉しくもあり、
することもなかったので話にノルことにした。
そうして僕は渋谷の一角で1坪ほどのスペースを借りて、ポンティアクという窓口をつくりDye's Projectを本格的にスタートさせた。
「ネイティヴスピリット」は本格的なものを作れるようになるまで大切にとっておくつもりでまだ公に使わなかった。
確かに僅かでも売れた。資金も底を突いていた僕は、おかげで次の革を買うことが出来、少しずつ作るものを増やしていった。


しかし、この時点でインディアンに認められたわけでもない僕はそれ風のものを作るにとどめ、
あくまでもウエスタン系のものを作って売っていた。
その世界で日本人でいながらそれを作っていい人はただ独りくらいしかいないと思っていた。
その方はインディアンとの生活、儀式から得たヴィジョンがあってもの作りをしている人だった。
僕は素直にその人にあこがれ尊敬し、自分なりに同じくらいになれる努力はしてみようと思っていた。
インディアンのクラフトの背景には仕事としてものを作って売るだけの世界では片付けられない奥深いものがあるはずだと信じて、
尊重しているつもりだった。
 場所の契約は6ヶ月、それまでに少しでも渡米資金を準備してなんとかアメリカに渡ろうとした。


EPISODE 3「初冒険」