CULTURE 8「本の知識」


最近は本をあまり読まなくなったが、
80年代にはずいぶんと関係する文献を探して読みあさった。


インディアンの家族と生活をしているとき。
最初のうち、ときどき読んだ本を話題をした。
いろんな本にいろんなことが書いてあったから。
『○○という本で△というメディスンマンが××といっていたけど本当?』
『___?。知らない。』
こんなようなこと何回かやってしまって、
あとで恥ずかしくなった。
自分の知っているという無知さをひけらかしたからだ。
そんなのソクラテスが言ったように馬鹿げてる。


目の前にいるのは現実に今を生きるトラディショナルなインディアン。
彼そのものが彼のトラディショナルなのであって、
他人が本に書いたことなど、いちいち気にしてない。
そういう本物の人を目の前にして本で読んだことを尋ねるなんて。


たしか、読んでいたカスタネダの本の中にも同じように、
カスタネダが知識をひけらかしてメディスンマンにバカにされるシーンがあった気がする。
インディアンとは自分たちのちからで学び取っているひとたちだ。
学ぶというそれは我々が本を開いて勉強するのとは大違いだ。
よく見て、思い、想い、憶い、念う__。
これすべて「おも」と読む。
ここまでして得たものは「重い」となるわけだ。(縄文語)

実はたった今、「おもい」を漢字変換して見つけたのだが
「考えることには祈りを伴わなければいけない」と書きたかった。
「念う」という字と読み方はまさにそれを表している。
(これは別にふれるつもりだが、
日本語に隠された縄文ネイティヴの言葉(言霊、コトダマ)のなごりだ。)

カスタネダのメディスンマンはこうも言ってたと思う。
『おまえたち(カスタネダを含む白人文化の人)は眺めてるだけで
ちっとも「みて」(見る、観る、視る、診る、看る、これらの意味を総動員して)ない。』
本で読んでも、実際にそれが「わかる」(分かる、解る、判る)までには時間と経験が必要。
僕はすでに本で読んでいたことを頭にいれながら実際には理解しておらず、
体験して思い知った。
安易でおろかで、無知。最悪だ。



そうして僕はあまり本を読まなくなった。
たまには読むが読んだところでつまらない本が多いし、
たとえ良い本だったとしても、もう「娯楽」としか捕らえない。
(最近はインディアンに薦められた本(洋書)を読むことのほうが多い)



CULTURE 9 「好きな祈りを」