CULTURE 2 「ベーシック」


インディアンは様々な部族がいる。
細かくわけるとおよそ500もいた。
侵略の歴史のなかで多くは失われつつあるが、必死で保とうとしている。
そんな個性的な人々をひとくちには言い表せないが、
僕の家族とそのあたりの多くの部族には宗教がない。
誤解しないでほしい。
宗教は教祖や人間のリーダーが神や信仰対象を解釈して、教典を持ち、人間が語るもので、
しばしば政治と結びつくものだ。


彼等には「誰にも負けない信仰心」がある。
その人がインディアンでいようとするトラディショナルな人なら、
いつも祈っている。
生まれてから死ぬまでその生き方は祈りとともにある。
彼等の中にいる「よく知るヒト」が自然界の事象を解説しそれをどう受け止め、
それに対しどう祈るかなどをガイドしてくれる。
「よく知るヒト」は守備範囲が様々で役割もそれぞれによって異なる。
彼等は代弁者だが、神主や神父と僅かに違っている。
代弁するのが「大いなる精霊」になぞらえた「自然界の事象」であるからだ。


「よく知るヒト」とは例えばメディスンマン(ウーマン)、ロードマンなど
何かについての知識、能力、総じて五感が優れ、
するどい第六感を持っている人もいる。


さらに言い及ぶと
彼等にはマニュアルがない。
個々の「よく知るヒト」のやり方がそのヒトの住むあたりのスタンダードといえる。
僕はあるシンボルについて、同一の部族の中で、3つの異なる解釈を聞いている。
祈る気持ちさえあればどれでもいい。
そんなふうに幾つもの解釈を聞いた時は、
僕は僕の家族、僕のメディスンマンの言ったことをそれとしている。
大事なのはそれを聞いてからだと思う。
いずれにせよ、聞いたことはそれを言った人のもので、まだ自分のものにならない。
知ってから自分のものになるまでにはどれだけかかるか、
本人の祈り次第だ。
シンボライズされたものには意味がある。
そう言われるし間違ってはいないが、本当は聞いてすむほど簡単ではない。
本人がそれをとらえようと努力(祈り)しないとその本人のものにならず、
いつまでも他人のものなのだ。


だからもし彼等について書かれた本があったとしても、
本にかかれているのは個人の見解にすぎない。
それを読んで彼等全体を理解することは不可能だ。
彼等の文化は口頭伝承によって個個人の小さなソサエティに受け継がれてきたものだ。
現代文明、資本主義社会、しかも遠い国に生きる我々にとっては
本に頼りたくもなる。
本は単なる娯楽だ。
良い本も悪い本も、言論の自由の原則に守られて存在する。
本を読むなら出来る限り沢山の本を読んで
自分なりに平均値を出すしかない。
本当に内容を理解するのは自分が経験してからだ。


またこのような(口頭伝承)文化を保有する民族はインディアンだけではなく、
我が国が侵略したアイヌも似た文化をもっている。


昔の名言がある
正確な言葉は忘れたがこんなふうだ。
『そんな本など森に捨ておけ、
その本が森の土の上でやがて朽ちていくのを見れば
その本に書いてある以上に多くを知ることが出来る。』
簡潔に言い切っている。


本の話しがでたついでに書いておく。
ひとりお勧めのライターをあげるとすれば、
迷わず、北山耕平氏をあげる。
氏はチェロキーインディアンのメディスンマン、ローリングサンダーのもとで
開眼して、以来ネイティヴピープルに関する著書を多く手掛けている。
1989年に氏と知り合い、ここのところお会いしていないが、
最近、「日本人の起源」についての著書の中に
氏の文章を見つけた。


僕はインディアンにあってから、
「俺って誰?」という感覚に包まれた。
それは今では「どうでもいい」と言い放てるが、
当時はそうはいかないほど自分はこころもとない存在だった。
今は胸を張っていえる、
『僕はフィトゥ(ヒト)だ。』

CULTURE 3「シンプルな世界」と「口頭伝承文化」